元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

習慣の悪魔

パソコンを、リュックごと家に置いてきた。

これはちょっとした勇気を必要とした。やるべき仕事は、常にある。
いつもの電車。だが、傍には、ギターとウクレレ。肩掛けには2冊の単行本と携帯と蜂蜜。
今日は、仕事を休んで、施設にライブに行く。
ふらりと旅行にでも行くような気分で行こうと思うけど、なかなか頭は切り替わらないもんで、あれこれ仕事のこと考えてしまう。よくないな。
でも仕事にまつわるものを、家に全部置いてきたのは正解だった。直接まつわるのは携帯くらいだ。「習慣」という魔物の抵抗が、僕に携帯を握らせ、この文章を書かせている。
でも、そうはいくか。まつわることなんか書かないぞ。

傍にギターがあることが、とても安心する。抱きしめたいような気持ち。
抱きしめてたら、危ない人に思われるのでやらない。
本でも読むか。少し眠るか。イヤホンを探る。ギター弾きたい。ウクレレそっと弾くくらいなら大丈夫かな。やってみるか。とりあえず携帯の電源切ってみるか。頭よ止まれ。

 

枯渇

通勤電車。帰り。30分間。じっとしていられないような、いたたまれないような。

疲れからか。

こういう時がよくある。

そんな時は、思いつくままに何か書いてみる。

「枯渇」。ただ浮かんだに過ぎない。

渇き枯れた状態。すべて無くなった状態。

しかし、乾きではない。渇き。

乾く。洗濯物が乾く。状態。

渇く。愛情に渇く。感情。

渇きは人を苦しめる。

「乾きたくない」という「渇き」。

求めなければ、渇くことはない。ただ乾くだけだ。

僕の人間に対する信頼は、時に乾く。渇くことは避けている。

渇くのは苦しい。御免皓むりたい。

しかし、だからこそ枯渇はしない。

休息を取るとか、遊ぶとかすれば、またそのうち潤ってくる。

愛情や信頼を枯渇させるものがあるとすれば、それは乾きではなく渇きだ。

外的な要因ではない。内的な切実な希求だ。

愛情にはハンデがある。乾くには、土台が必要だ。自己肯定感とか、愛着形成とか言われる。それがなければ、乾けず、渇く。それは苦しいことだ。

しかし、渇きこそが、世の中を積極的に動かしてもいる。もっと欲しい。もっと潤いたい。もっと褒められたい。もっと愛されたい。街を歩けば、看板から、ネオンから、音楽から。人と関われば、言葉から、容姿から、その声は聞こえる。

我々の世界は、いつの間にか、渇きをエネルギーにしている。

しかし、だからこそ、苦しさは増し、そして枯渇に向かっている。

エネルギーの転換が求められている。

いつか枯渇してしまう石油や石炭ではない。太陽光や風を利用したエネルギー。

人間の心も、そこから離れていない。

渇きのエネルギーから、気づきのエネルギーへと変換しなければならない。

原始仏教の命題は、そういうエネルギー転換だったのではないかと思う。

自分に取り組むということこそが、世界に取り組むということだ。実践したい。

苦しみは、できれば味わいたくない。

しかし、苦しみこそが、気づきをもたらしてもくれる。

電車の中の、いたたまれない気持ちが、僕に枯渇という文字を書かせたように。

やはり苦しみから始めるしかない。そういう時代だ。

電車が駅に着く。

絶望しないように

大麻だったか、何だったか、そんな類のものを手渡されて、それを家に持って帰るか、随分と悩んだ夢をみた。
悪魔は優しい顔して、僕の小さな絶望に、近づいてくる。
誰にもそんなタイミングはあるはずだ。紙一重だ。

すぐ近くに、いつもいる。

はねのけるには、友達が必要だ。
睡眠と休息と、あそび。
感謝の気持ち。
瞑想や呼吸や、思想。

真剣さや、自分への信頼。
とにかく絶望してはいけない。

誰しも、絶望しないように、あらゆる事をしている。
思えば僕は、呪文のように日々歌う。
バリアのように。
いつも近づいてくる絶望を、はねのけるように。
寂しさを歌うのは、寂しさに飲み込まれないためだ。
深呼吸して。

小さいことをこそ、大切にしよう。
絶望しないための、一つ一つが、誰かの絶望を食い止める。

そういうことを信じたい。

僕が僕を助けるとき、誰かも同時に助けている。

そういうことを信じたい。 

 

今度勧めてきたら言おう。

それは要らない。

一緒に絶望を追い払いたい。

 

静かな言葉

嘔吐 

 

台所では
はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその肉を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が
切られた人間を笑ったという
切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ
かつらをかむり
義足をはいて
やっと人の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚き火をしながら
ごく
自然に笑ったという

 

 

 このブログでも、以前に紹介したハンセン病の詩人塔和子球根 塔和子 - 元島生

思うところあって、塔和子の詩を、また紹介したい。

ハンセン病の強制収容の生活の記録は、多数残っているが、それは文学作品としても、高く評価され、ハンセン病文学という一つのジャンルを形成している。

僕は一時期、ハンセン病文学の虜で、全集を読み漁り、療養所にも行き、住人の方々ともお話しさせてもらった。

その言葉のリアリティは、恐ろしいものがある。人間とは何かということが、体験的に迫ってくる。

僕が初めてハンセン病に関する言葉で、深く心をつかまれたのは、ハンセン病患者が原告となり、国と闘った国賠訴訟、その闘いに弁護士たちを起たせる契機となった文章。九州弁護士会連合会に送られた、原告の島比呂志さんの手紙の文章だった。

僕はその文章を、何かのきっかけで見つけ、何度も読んだ。当時10代、貪るように言葉を探していたであろう僕の心に、それは強烈に残っている。

抜粋する。

法曹界は「砂漠」である。らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だと言われ出して、どれだけの歳月を空費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたこ とか。それは無実の死刑囚にも匹敵する。」
「黙認している法曹界は存続を支持していると受け取られてもしかたがあるまい。」
「傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である。」

 

この文章に対して、強烈な反省を述べていた弁護士の手記だったと記憶している。

 

ハンセン病文学は、人間というもの、差別というものを、自分の中に克明に浮かび上がらせる力がある。

傍観を決して許してはくれない。

僕たちは、人間の足を切り落として、笑うかもしれない人間なのだ。

 

近年、巷には、まるで着火剤のような言葉があふれている。

人口甘味料と香料で、パクっと食いつく言葉が踊る。

手軽に拾われてきて、装飾品のように、武具のように、ある意図をもって並べられる言葉。

疲れる。

自分も知らず知らずにそうなっていないか、注意したい。

 

ハンセン病療養所を訪問した当時、500人くらいがそこに住んでいたと記憶している。

しかし、誰一人いないかのように、静かだった。

あの静けさは、何だったのだろうと、今も考える時がある。

 

塔和子の詩の中に、ハンセン病文学の中に、あらゆる詩の中に、やはり、あの静けさを感じる時がある。

 

いま、静かに、言葉を感じたい。

じっくりと、沈みみたい。

 

今日「言葉の交換会」というイベントをやる。

言葉の奥に、みみをすませたい。

 

そういうことを、日常に入れていきたい。

 

 

物語を採用しない生き方~杉田水脈発言から~

「同性愛者の自殺率は、6倍も上がる」
それを笑って話す国会議員と取り巻き。
寒気と言うのか、嫌悪と言うのか、自分自身の負の感情によって自分の心が汚れていくような感じがした。
辛くて最後まで観るのに骨が折れた。
何人かの友達の顔が浮かんだ。

今回の杉田議員への抗議活動を「言葉尻をとって騒いでいる」と批判する人達がいるが、それは言い当てていないと思う。
僕も含め、反応している人たちの多くは、きっと言葉の裏にある、差別意識や、排除理論を見抜いている。

世界はお金によって統一され、人々は個に分断され、様々なことは多様化し続けている。信じるべき物語が無い時代に、僕らは共同性を失い、慢性的な鬱の状態になり、日々、むさぼるように自分を規定し起動してくれる物語(言葉)を探している。

しかし、言葉や物語も、消費の中に組み込まれていて、僕らはもはや、感動しなくなってきている。
より強い物語を求めて、人々はより過激で、分かりやすい思考に頼るようになるだろう。
僕はそれが怖い。その怖さと、気持ち悪さを、きっと見抜いていると思う。

どのような物語を信じるかは、自由だ。
しかし、その物語が、誰かを排除したり、深く傷つけたり、殺したりするかもしれないことには、注意を払いたい。
そのために、感性がいる。

いま僕らは、物語を離れて、感性に頼る必要がある。
できれば、どの物語も採用せず、いま、どこに生きているのかを、よく見る必要がある。
何にも頼らず、見れるようになる必要がある。

彼女達か笑ってしまうのは、人間を見つめる感性よりも、信じている物語を優先しているからだ。
だからなんの罪悪感もなく笑え、反省もできない。

それは「障がい者を殺すことが世界平和につながる」その物語を疑いなく信じて、実行に移し、いまだ反省できない若者と、質的には変わらない。

僕らはもっと賢くなろう。
物語に頼らないでよい生き方を、摸索しなければいけない。

いま、感性は、僕ら力の弱い市民が持てる、最大の武器だ。

 

 

「鬼になる気はあるの?」

 唐突に言われ、僕は箸を置いた。

平和な朝食中に、苦難はやってきたのだ。

人生には、鬼にならなければならん時も、あるのだろう。

腹を括り、妻を見据えた。

 「何があった」

そう聞くと

 「ゆいが節分の豆まき楽しみにしてるの」そう言うのだった。

そこで私は腹を決め、娘を見据えた。

そして心を鬼にして、言ったのだ。

「人に豆を投げつけるとは何ごとだ」