元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

お前が目を覚ませ

 

紅葉の効用は、光陽を航洋することによる、高揚。賞賛を乞うよな文章にて、ご機嫌を伺おうというわけだが、勝算はない。許しをこそ、請いたい。

韻を踏むというより、漢字で暇を踏んでいる感じ。暇なのかと言われれば、やることは目の前に山積しているのであって、現実を逃避する方法に、ついに事欠いた結果が、このような醜態。

 

はたしてイヤホンからは、吉澤嘉代子が東京絶景を歌っている。東京は美しい。終わりのない欲望。むせるまで笑ったって跡形もない昨日。野良猫が漁るゴミ捨て場に、額縁をはめてみる。東京の絶景。僕もそう思う。

 

 最近は移動が多く、電車の中が、仕事場になっているわけで、しかし、今日はどうも集中できない。こうやって文章を書いていると、心と文字が近づき、そのまま仕事へと移行する算段。しかし結果は散々。

 お付き合いいただいた方には、どうお詫び申し上げてよいやら。お詫びのしようもないので、しませんが。

 

仕事とは、つまり集中。集中することができれば、やるべきことは分かり、出来る。

集中を阻害する様々が、害悪。害悪はいつも内面。

 

 「え~、私のおあとが、、、掃除をすることになってるんですが」志ん生の間。すごすぎる。

あの間は音楽だ。演劇だ。小説。絵画。

 

 絵画。今、丸の内の三菱一号館美術館で、フィリップスコレクションやってる。モネ、ゴッホ、ピエールボナール、シスレージャコメッティ。素晴らしかった。美術館が今、一番の癒し。フランダースの犬のネロの死に方はいい。絵を見ながら死ねるなんていい。

 

 ジブリ魔女の宅急便。13歳の子どもであっても、誰も知らない土地であっても、取り柄がないと思っていても、人のことを想いながら懸命にやっていれば、必ず手を差し伸べてくれる人や、環境が、ちゃんと現れるもんだ。学歴とか職歴とか資格とか、そういうんじゃなよ。いいかげん目を覚ませ。

 

 そろそろやるべきことをしようか。お前が目を覚ませ。

 

 日記が病んでる。自分が病まないためだろう。文章が急ぐいでる。落ち着くためだろう。文章はやっぱり実態と違うよ。むしろ真逆。

この方法で仕事に移行するのは不可能ではないが、いい仕事にはならないな。

 

 いいかげん目を覚ませ。

 

 

 

 

 

ゆれる

タスクをこなす。

ひたすら消していく。

何を成し遂げたのだろうか。

何を成し遂げたいのだろうか。

 

僕の日々の中で、最も大きな意味を持つ行為は、最も小さな行為。

この世界の平和は、僕の内面にこそ完成する。

自分自身に取り組むことこそが、最も大きな平和への行動だ。

 

嫌われたっていいじゃないか。

せっかく出会えたんだもの。それさえも貴重じゃないか。

 

息を吸いながら吸っていることに気づく。

吐きながら吐いていることに気づく。

 

酒が飲みたい。そう書きながら唾液が出る。

生きづらい。神様よくぞ。それでいい。

 

あれは何だろう。あの態度。

誰の内面にも生命の歴史が刻まれている。

誰の遺伝子にも、人殺しがいるし、聖人がいる。

意味など大したことじゃない。

考えるな。

 

酔っぱらい。障がい者。きれいな人。人を指さすな。黒縁めがね。

喜びこそ苦しみ。

 

感じることさえいいかげんなものだ。

今、目の前、それだけ。

 

また動く必要があるから疲れるのに、ごまかしたら、いつか動けなくなるにきまってる。

 

今の感情はすべて必要なんだよ

 

僕も電車もゆれる。

手すりも。駅も。空も。未来も。

全部ゆれる。

 

 

習慣の悪魔

パソコンを、リュックごと家に置いてきた。

これはちょっとした勇気を必要とした。やるべき仕事は、常にある。
いつもの電車。だが、傍には、ギターとウクレレ。肩掛けには2冊の単行本と携帯と蜂蜜。
今日は、仕事を休んで、施設にライブに行く。
ふらりと旅行にでも行くような気分で行こうと思うけど、なかなか頭は切り替わらないもんで、あれこれ仕事のこと考えてしまう。よくないな。
でも仕事にまつわるものを、家に全部置いてきたのは正解だった。直接まつわるのは携帯くらいだ。「習慣」という魔物の抵抗が、僕に携帯を握らせ、この文章を書かせている。
でも、そうはいくか。まつわることなんか書かないぞ。

傍にギターがあることが、とても安心する。抱きしめたいような気持ち。
抱きしめてたら、危ない人に思われるのでやらない。
本でも読むか。少し眠るか。イヤホンを探る。ギター弾きたい。ウクレレそっと弾くくらいなら大丈夫かな。やってみるか。とりあえず携帯の電源切ってみるか。頭よ止まれ。

 

枯渇

通勤電車。帰り。30分間。じっとしていられないような、いたたまれないような。

疲れからか。

こういう時がよくある。

そんな時は、思いつくままに何か書いてみる。

「枯渇」。ただ浮かんだに過ぎない。

渇き枯れた状態。すべて無くなった状態。

しかし、乾きではない。渇き。

乾く。洗濯物が乾く。状態。

渇く。愛情に渇く。感情。

渇きは人を苦しめる。

「乾きたくない」という「渇き」。

求めなければ、渇くことはない。ただ乾くだけだ。

僕の人間に対する信頼は、時に乾く。渇くことは避けている。

渇くのは苦しい。御免皓むりたい。

しかし、だからこそ枯渇はしない。

休息を取るとか、遊ぶとかすれば、またそのうち潤ってくる。

愛情や信頼を枯渇させるものがあるとすれば、それは乾きではなく渇きだ。

外的な要因ではない。内的な切実な希求だ。

愛情にはハンデがある。乾くには、土台が必要だ。自己肯定感とか、愛着形成とか言われる。それがなければ、乾けず、渇く。それは苦しいことだ。

しかし、渇きこそが、世の中を積極的に動かしてもいる。もっと欲しい。もっと潤いたい。もっと褒められたい。もっと愛されたい。街を歩けば、看板から、ネオンから、音楽から。人と関われば、言葉から、容姿から、その声は聞こえる。

我々の世界は、いつの間にか、渇きをエネルギーにしている。

しかし、だからこそ、苦しさは増し、そして枯渇に向かっている。

エネルギーの転換が求められている。

いつか枯渇してしまう石油や石炭ではない。太陽光や風を利用したエネルギー。

人間の心も、そこから離れていない。

渇きのエネルギーから、気づきのエネルギーへと変換しなければならない。

原始仏教の命題は、そういうエネルギー転換だったのではないかと思う。

自分に取り組むということこそが、世界に取り組むということだ。実践したい。

苦しみは、できれば味わいたくない。

しかし、苦しみこそが、気づきをもたらしてもくれる。

電車の中の、いたたまれない気持ちが、僕に枯渇という文字を書かせたように。

やはり苦しみから始めるしかない。そういう時代だ。

電車が駅に着く。

絶望しないように

大麻だったか、何だったか、そんな類のものを手渡されて、それを家に持って帰るか、随分と悩んだ夢をみた。
悪魔は優しい顔して、僕の小さな絶望に、近づいてくる。
誰にもそんなタイミングはあるはずだ。紙一重だ。

すぐ近くに、いつもいる。

はねのけるには、友達が必要だ。
睡眠と休息と、あそび。
感謝の気持ち。
瞑想や呼吸や、思想。

真剣さや、自分への信頼。
とにかく絶望してはいけない。

誰しも、絶望しないように、あらゆる事をしている。
思えば僕は、呪文のように日々歌う。
バリアのように。
いつも近づいてくる絶望を、はねのけるように。
寂しさを歌うのは、寂しさに飲み込まれないためだ。
深呼吸して。

小さいことをこそ、大切にしよう。
絶望しないための、一つ一つが、誰かの絶望を食い止める。

そういうことを信じたい。

僕が僕を助けるとき、誰かも同時に助けている。

そういうことを信じたい。 

 

今度勧めてきたら言おう。

それは要らない。

一緒に絶望を追い払いたい。

 

静かな言葉

嘔吐 

 

台所では
はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその肉を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が
切られた人間を笑ったという
切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ
かつらをかむり
義足をはいて
やっと人の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚き火をしながら
ごく
自然に笑ったという

 

 

 このブログでも、以前に紹介したハンセン病の詩人塔和子球根 塔和子 - 元島生

思うところあって、塔和子の詩を、また紹介したい。

ハンセン病の強制収容の生活の記録は、多数残っているが、それは文学作品としても、高く評価され、ハンセン病文学という一つのジャンルを形成している。

僕は一時期、ハンセン病文学の虜で、全集を読み漁り、療養所にも行き、住人の方々ともお話しさせてもらった。

その言葉のリアリティは、恐ろしいものがある。人間とは何かということが、体験的に迫ってくる。

僕が初めてハンセン病に関する言葉で、深く心をつかまれたのは、ハンセン病患者が原告となり、国と闘った国賠訴訟、その闘いに弁護士たちを起たせる契機となった文章。九州弁護士会連合会に送られた、原告の島比呂志さんの手紙の文章だった。

僕はその文章を、何かのきっかけで見つけ、何度も読んだ。当時10代、貪るように言葉を探していたであろう僕の心に、それは強烈に残っている。

抜粋する。

法曹界は「砂漠」である。らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だと言われ出して、どれだけの歳月を空費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたこ とか。それは無実の死刑囚にも匹敵する。」
「黙認している法曹界は存続を支持していると受け取られてもしかたがあるまい。」
「傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である。」

 

この文章に対して、強烈な反省を述べていた弁護士の手記だったと記憶している。

 

ハンセン病文学は、人間というもの、差別というものを、自分の中に克明に浮かび上がらせる力がある。

傍観を決して許してはくれない。

僕たちは、人間の足を切り落として、笑うかもしれない人間なのだ。

 

近年、巷には、まるで着火剤のような言葉があふれている。

人口甘味料と香料で、パクっと食いつく言葉が踊る。

手軽に拾われてきて、装飾品のように、武具のように、ある意図をもって並べられる言葉。

疲れる。

自分も知らず知らずにそうなっていないか、注意したい。

 

ハンセン病療養所を訪問した当時、500人くらいがそこに住んでいたと記憶している。

しかし、誰一人いないかのように、静かだった。

あの静けさは、何だったのだろうと、今も考える時がある。

 

塔和子の詩の中に、ハンセン病文学の中に、あらゆる詩の中に、やはり、あの静けさを感じる時がある。

 

いま、静かに、言葉を感じたい。

じっくりと、沈みみたい。

 

今日「言葉の交換会」というイベントをやる。

言葉の奥に、みみをすませたい。

 

そういうことを、日常に入れていきたい。