闇にたたずむのが勇気だ
人生は何が起こるか分からない。
朝起きて、僕は何とも言えない焦燥感に襲われ、それは、なかなか抜けてくれなかった。
鬱。時折こういう気分に襲われた。
理由は分からない。横領やなんかで警察に捕まるような悪い夢を見て、それを引きずっていたかもしれない。
そういうことをしているわけではないのに、それは夢というより、追体験のようなリアルさで、ずんと心を重くした。
自分の弱さを思い知る。
もし、そういう局面に、実際に出会ったとしたら、僕は耐えられそうにないし、これから来るあらゆる苦難の時、僕は精神を壊すだろう。
強くなりたい。どのようにすれば、強くなれるだろう。とにかく強くならなければいけない。
こういうことがあると、そればかりが、大事なような気がしてくる。
どうやれば、食いつなげられるか、危機を避けられるか、日々、先行き不安は尽きないが、それもこれも、弱さ故の思考なのだ。
人間は強くなれるのだろうか。弱さをどう克服し得るのだろうか。酒を飲んでも、立場や肩書の鎧を着ても、心根は変わらない。どこかで逃げ続けているものだ。
こういう時、僕をぎりぎりのところで、支えるのは、2500年前に書かれた言葉たち。古い仏典を訳したもの。人間は弱いものだ。人間の生は苦しみそのものだ。欲望や、恨み、愛さえも、それは自分を苦しめる。そういうものを捨てること。目の前のことに、ただただ誠実にあること。天国も地獄も救いもありはしない。目の前の事にただただ誠実であることを拠り所とすること。
それは、明りの世界から、急に洞窟に迷い込んで、混乱して震えている僕を、落ち着かせる。怖いのは、現実を見つめる勇気がないからだ。
闇ならば、闇を見るしかない。じっと闇にたたずむことが勇気だ。
自分を苦しめているのは、自分の中から出てくる妄念だ。
自分を整える以外に、自分を助ける方法はない。
自分を乱すのは、自分の中にある、欲望や狡さ。
それらをよく見ること。そしてそれにその都度、打ち勝つこと。
それが整えるということだ。ありのままに見つめることができるか。それが勇気だ。
そういう言葉たちをを思い出し、ようやく、よろよろ目を開ける。闇の中に、弱い自分の姿が、じんわりと浮かんでくる。見つめるしかない。そこからしか、立ち上がれない。
掴みたくて、こうして書いている。
2017年7月8日 正午 長野にて