元島生

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子ども・若者の自殺考 ~失われたギャングエイジ~

子ども・若者の自殺考

~失われたギャングエイジ~

NPO法人場作りネット副理事長 元島生

 

渋谷の交差点。ハロウィンで仮想して騒ぐ若者たち。20代くらいだろうか。交差点を埋め尽くし、時は今とはしゃいでいる。その光景を見ながら、学童保育の指導員時代を思い出していた。この現象もまた、ギャングエイジの先送りなんじゃないかなと感じる。

 

ギャングエイジというのは、小学校3~4年頃に見られる現象で、子どもの精神的な成長発達において重要な時期を示した発達心理学の言葉だ。それまで親や先生の支配下にいた子供たちが、その支配を離れ、子どもたちだけの世界を作ろうとする。大人の目の届かないところで集団になって、自分たちのルールで遊んだり、悪さしたりするもの。そういう集団の時間を経験することで、心の居場所を作り、仲間意識や、社会性の礎を育んでいく。

僕らの子ども時代は、まだそうした時間はあった。秘密基地を作ったり、子どもだけで遠くに出かけたりした。そこでの時間が、自分の人格形成に大きな影響を与え、今現在も自分を支えていることは、実感としてある。

しかし、近年、子どもたちの発達の過程に、このギャングエイジが喪失したと言われている。そしてそれが、思春期や、その後の人生の躓きを大きくしているという指摘がある。

 

僕が学童保育の指導員だった頃、このギャングエイジ現象に、ずいぶんと手を焼いた。

ある日、高学年の男の子たちが、素晴らしい秘密基地を作ったから見に来いと言う。意気揚々とする子たちに着いて行くと、そこは、立ち入り禁止の柵の中の裏山だった。柵をのり超えていくと、木の上に、竹などを組み合わせツリーハウスさながらの基地が作成されていた。僕が登場すると、基地作成を続けていた子たちは、誇らしげに説明をした。世紀の大発見をしたかのように、新たな使えそうなものを運んでくる低学年の子。大きな声で指示を飛ばす高学年の子。子どもたちの目は輝き、自信に溢れ、生きる喜びに満ちた共同作業(労働)がそこでは行われていた。

 僕はすっかり困ってしまった。こんな素晴らしい時間を過ごしている子たちが、愛おしかった。この時間を保障してやりたかった。

しかし、僕は大人である。社会のルールの中に生きており、ここが立ち入り禁止だという事も守らせなくてはならない。

 素晴らしいものを作ったことへの称賛や、共感をしながらも、場所を移れないか提案をする。しかし、子どもたちは当然、受け入れない。こういう時にまやかしは通用しない。本音でやり取りをしなくてはいけない。子どもたちの主張は、正しい。なぜこの裏山まで大人は奪うのかと問うてくる。僕は反論する言葉を持たなかった。このことは、保護者会でも議論してもらい、当然のごとく、秘密基地は壊され、公園で一日限定の秘密基地が作られることになった。

 僕にとっての、ギャングエイジをめぐる問題は、子どもの成長発達の機会保障と、それを許さない社会との間で、自分がどうふるまうべきかという葛藤だった。自分が大人になりきれないところに手を焼いたのだ。そしてそれは今も、変わらない。

目の届かない場所は、どこもかしこも立ち入り禁止になり、子どもたちがギャングエイジを発揮する場所は、おのずと保育所の中に持ち込まれた。屋根に登る、木に登る、穴を掘る、仲間外れを作る、ルールを破る、いじめをする。

 時間や場所が奪われるごとに、子どもの「表出」の方法は「問題行動」にスライドした。

子どもたちが起こす現象は、子どもにとって、全て必要な現象だ。そこには、何らかの子どもなりの必要性が背景に隠れている。それをどう読んでいくかという営みが保育という仕事だ。

 

学校から保育所に帰宅し、塾までの短い時間を、なんとしても遊ばなくてはいけないという高学年の姿には「何としても」という強さがあった。そこには、子どもの命の要請があった。ルールや協調などは踏みつぶしてでも、そこで精神を安定させなければという危機感を感じた。

健気にも、子どもたちは、なんとしても、安定した成長を遂げたいと、あらゆる手を尽くしている。その表出の形の一つが「いじめ」であり、あらゆる「問題行動」ではないだろうか。

それを、早くから論じていたのは、深谷和子さんで、1986年「いじめ」―青少年の発達危機の考察ーでは、いじめはギャングエイジの今日的な変形された姿だと論じている。

その「今日」から30年以上が過ぎた今日、いじめは未だ無くならず、子どもの自殺は観測史上過去最多となっている。子どもは身を呈して、教えてくれている。いい加減に耳を貸すべきだ。

 

忘れられない光景がある。

塾や習い事がたくさんあり、そういう子どもの時間を過ごせず、問題行動を頻繁に起こす子がいた。

小学校を卒業し中学生になった彼を、夏のある日、街のお祭りでふと見かけた。その子は同性の集団で歩いており、祭の人込みの中、こっそり「かんしゃく玉」(コンクリートに投げつけると爆発音のするおもちゃ)を投げ、逃げていった。その子たちは、笑っていた。その子の少年時代を知る僕は、それを見て「取り戻している」と感じた。

ギャングエイジは社会学で「隙間集団(interestitinal group)」とも呼ばれる。つまりそれは、社会の隙間に自分たちの存在を作る時間とも言える。

その時間を過ごせなかった子たちは、保育所であらゆる形にその表出をスライドさせていったように、その後も、あらゆる形で、その隙間を作ろうとするのではないか。

人込みにかんしゃく玉を投げるのも、渋谷の交差点を埋め尽くすのも、そういうことの象徴に見える。

 

自殺の問題は、あらゆる社会的、歴史的な背景を持っていると感じる。その声に耳を傾け、今、どんな場や時間が僕らの生活に必要なのか、考えていかなくてはならない。

その一つは、子どもたちの時間を取り戻すことだと感じている。子どもが遊べる時間や、場をどう作るか、真剣に考えなくてはならない。例えば、宿題を週一回でいいから無くす。そういう事の方が、相談窓口を作るより簡単で、有効な自殺対策ではないだろうか。

 

何年か前に、横浜でプレイパークという取り組みを見学したことがある。僕が若き日に学童保育で抱えていた葛藤を見事に解決したような場所で、感動した。都会の公園の中で、子どもたちは火を起こし、屋根から飛び降り、基地を作っていた。大人は管理せず、止めず、しかし、見守っていた。

そういう事が大切だと気が付いている大人もいる。力強い取り組みもある。希望を持ちたい。

僕らには、まだまだ出来ることがある。