芝浜について
「また夢になるといけねぇ」
最後のダメ押しだった。立川談志の芝浜を聴いて、僕は最終的に酒を辞めることを決意した。
5年間1滴も呑まなかった。そう考えると、とてつもない物語の力。
しかし、引っ越しをして、封印は解かれた。
これが、一滴でも飲むと逆戻りなのだ。
引っ越した先で、ダイナミックに人間関係や人生が動き出して、物語が更新されていく、その隙間に、酒は上手に入り込んできた。
さすがは液体。実に見事。
困り果て、今これを書いている。
今、断酒して1カ月半。自分の中にどのような物語を再構築するか。それは急務。
一度、芝浜を言語化しておくかと思い立った。
早く書かないとまずい。酒を想起して唾液が出ている。
「芝浜」立川談志をはじめ、多くの落語家が演じてきた演目で、大晦日には必ずどこかでかかっている大ネタ。江戸時代。当時の年末というのは、掛け取りといって、ツケ(当時はみんなツケで買った)を回収する期間であり、貧乏人は苦労した。そんな頃のお話。
腕のいい魚屋の勝五郎。いい魚を仕入れ、天秤棒を担いで売る。お得意先も多かった。
しかし、この勝五郎、酒飲み。昼間から酒を食らうようになる。仕事にさわる。お客も減る。そうなると、また飲む。ついに働かなくなる。
「ねぇあんた。起きて商いに行ってくれよ」妻に起こされるところから物語は始まる。
「今日飲みたいだけ飲ませてくれれば、明日から行く」散々ごねて、飲んで寝てしまう。
次の日。約束だと言われ、しぶしぶ仕事に向かう。芝の浜で一服していていたところ、革財布を拾う。中には四十二両。一生遊べるくらいの大金。大急ぎで家に帰り、妻に見せる。これで働かなくていい、貧乏しなくていいぞと大喜び。食い物や酒を運ばせ、仲間を呼んで、どんちゃん騒ぎして寝てしまう。
「ねぇあんた起きて商売に行ってくれよ」場面はまた、妻に起こされるところ。
金があるから商売なんて行く必要ないじゃないかと言うと、妻は何の話か分からないと言う。あんた夢でも見たんじゃないかと言う。
大量の酒、料理、このツケをどうするつもりだと詰め寄る。
夢だったか。自分はとうとう酔って夢を見て、こんなことまで、しでかすようになってしまったのか。
勝五郎はついに思い知って、酒を辞めて働く。
3年の時が過ぎた。真面目に働き、人を雇えるようになり、ツケを払わなくてもいい年末を迎えた。
お茶を飲みながら感慨にふける夫婦。
そこで、妻は決心して話し出す。
「この財布に見覚えはないかい」
そこには、あの革財布。どういうことだと話を聞くと、あの日、勝五郎がどんちゃん騒ぎ酔っぱらって寝てしまった後、妻は心配になり大家さんに相談した。
大家は言った。こんな生活していれば、いつかはお上に知れる。そうなれば勝五郎は捕まる。夢にしてしまえと。それが勝五郎のためだ。
妻は決意して夢にしたのだと。
許してくれと涙ながらに言う。
勝五郎は驚く。
そして妻に感謝する。大家に感謝する。
真面目に正直に生きることができて、こうして幸せな年末を迎えられたのは、妻や大家のおかげだ。
年が明けたら大家に挨拶に行こう。
夫婦ともども感謝し合い、今の生活があることを喜んだ。
そして、妻は、もう一つと、酒をとり出す。
密かに用意していたのだという。
あなたが真面目に働くようになってくれてうれしい。自分も秘密を打ち明けられてうれしい。もう大丈夫だ。一緒に飲もうと。
勝五郎は、迷った挙句、飲むこととする。
感慨深く、酒の入った茶碗を眺めたり、話しかけたり。
そして、では飲むぞ、ありがとうと、茶碗を口元に近づけたが、飲む寸前、顔色を変え、飲まずに茶碗を下に置く。
そして一言。
「やっぱり止そう。また夢になるといけねぇ」
このサゲ(オチのこと)のおしゃれさ。茶目っ気。粋。堪らない。
勝五郎が酒を飲みそうになった時、誰しもが、この幸せなストーリーが、壊れる予感を感じるだろう。
一滴でも飲めば、元の木阿弥。それが酒の怖さである。
誰しもが息をのむ、その瞬間、勝五郎は変わる。
言葉と共に変わる。
それは、ある化学反応を見るようだ。何かに近い。火だ。
火はあらゆる諸条件が揃い起こる。
発火した瞬間を見るに似ている。
今まさに酒を飲もうとする時、まだ勝五郎の中には、酔う事への幸福感が残っていている。
しかし、その言葉を発した瞬間には、それを乗り越えている。
乗り越えたから言葉にしたのではない。
言葉にしながら乗り越えたのだ。
その瞬間に、過去も含めての「今」を、肯定できたのだ。
そのダイナミックな瞬間で幕が下りることの気持ちよさ。
僕は、この物語の、作りの素晴らしさに感動すると共に、人間の人生も、もしかしたら悪くないのかもしれないという、一筋の希望を見る。
正直に生きることの素晴らしさに憧れる。
「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はダメな存在だということを酒が教えてくれるのだ」
この芝浜を十八番にしていた立川談志は、ことある毎に、そう言っていた。
それは、そもそも人間なんて偉い存在じゃなく、どうしようもないダメな存在なんだという真実。
そして、だからこそ、そのどうしようもなさを知り、慎ましく健気な幸せを知る事も出来る、存在でもあるのだという、人間に対する一筋の希望を、この噺に込めていたように思えてならない。
僕にとって芝浜は、そういう人間への願いの込められた噺なのだ。
と、ここまで書けば、もはや、酒など飲まずにいられるかもしれないと思う。
気持ちは随分落ち着いた。
文体を見ても、それは感じてもらえるだろう。
書くということもやはり、化学反応だ。
なかなかいい分析が出来た。さすが私だ。
これが書けた私は、偉い人間かもしれない。
と、そう思うなら、やはり飲んで、己のダメさを教えてもらう方がいい。
僕はすぐつけ上がる。無限ループ。
しかし、それらが見えるのも、やはり酒のおかげではあるし、つまりは、ダメな自分のおかげなのである。
それでいい。