枯渇
通勤電車。帰り。30分間。じっとしていられないような、いたたまれないような。
疲れからか。
こういう時がよくある。
そんな時は、思いつくままに何か書いてみる。
「枯渇」。ただ浮かんだに過ぎない。
渇き枯れた状態。すべて無くなった状態。
しかし、乾きではない。渇き。
乾く。洗濯物が乾く。状態。
渇く。愛情に渇く。感情。
渇きは人を苦しめる。
「乾きたくない」という「渇き」。
求めなければ、渇くことはない。ただ乾くだけだ。
僕の人間に対する信頼は、時に乾く。渇くことは避けている。
渇くのは苦しい。御免皓むりたい。
しかし、だからこそ枯渇はしない。
休息を取るとか、遊ぶとかすれば、またそのうち潤ってくる。
愛情や信頼を枯渇させるものがあるとすれば、それは乾きではなく渇きだ。
外的な要因ではない。内的な切実な希求だ。
愛情にはハンデがある。乾くには、土台が必要だ。自己肯定感とか、愛着形成とか言われる。それがなければ、乾けず、渇く。それは苦しいことだ。
しかし、渇きこそが、世の中を積極的に動かしてもいる。もっと欲しい。もっと潤いたい。もっと褒められたい。もっと愛されたい。街を歩けば、看板から、ネオンから、音楽から。人と関われば、言葉から、容姿から、その声は聞こえる。
我々の世界は、いつの間にか、渇きをエネルギーにしている。
しかし、だからこそ、苦しさは増し、そして枯渇に向かっている。
エネルギーの転換が求められている。
いつか枯渇してしまう石油や石炭ではない。太陽光や風を利用したエネルギー。
人間の心も、そこから離れていない。
渇きのエネルギーから、気づきのエネルギーへと変換しなければならない。
原始仏教の命題は、そういうエネルギー転換だったのではないかと思う。
自分に取り組むということこそが、世界に取り組むということだ。実践したい。
苦しみは、できれば味わいたくない。
しかし、苦しみこそが、気づきをもたらしてもくれる。
電車の中の、いたたまれない気持ちが、僕に枯渇という文字を書かせたように。
やはり苦しみから始めるしかない。そういう時代だ。
電車が駅に着く。