元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

逃げ人生

僕が最初に逃げ出したのはいつなんだろう。

中学校の頃、同級生が先生に反抗していた。僕も本当はそうしたかった。だけどできなかった。怖かった。自分が外れるのが怖かった。暴力が怖かった。その友達を心では支持しながら、自分は先生に従った。

その辺が思い出せる記憶としては、古いもので、本当はもっと小さいころから始まったと思われる。

それからは、受験から逃げ、卒論から逃げ、進路から逃げ、仕事から逃げ、やりたいことからも逃げ、何かと言い訳や、自分を肯定する理屈をこねながら、30後半に差し掛かろうという今も、現実から逃げ、小説の中に逃げ込もうとしている。

本当は自分ひとりでは何もできない。一人になれない。にやにやと作り笑いをしながら、同調し、群れから排除されないようにしている。

逃げている罪悪感からも逃れるために、言葉を駆使し、自分のことも欺こうとしている。もはや救いようもないくらい、言葉は僕を覆い隠してしまった。

この文章もそうかもしれない。

僕の体は、無数の言葉で覆われていて、皮膚は見えない。

下層部分は、もはや皮膚と同化しており、むやみに剥がすことは、つまり皮膚を剥がすその痛みを伴う。

時に、僕の嘘の言葉を剥がしてくれる人がいる。そういう人に触れた時、激しい痛みとともに、僕は死にたくなっているのだ。

では、どうすればいいのだろうか。どうすれば救われるのだろうか。

これからの人生、逃げずに生きるために、何をすればいいだろうか。

僕は本当は何が好きなのだろうか。

何がやりたいのだろうか。

何が嫌で、何が苦しくて、何が喜びなのだろうか。

僕はどんな人間なのだろうか。

 

こんな僕を小説の中に入れたら、僕はどのように動くのだろうか。

どんな物語を生きようとするのだろうか。

僕は今、もはや救いようがないほどに無残な姿になってしまった僕自身を、ICUの手術台の上に乗せ、オペを試みようとしてる。果たして手術は成功するのだろうか。

おっと、しかしその前に、メスはどこだ、まず、腹ごしらえするか、まあ今日は寝て、明日にするか。

そんなこんなで、一向に手術を開始しない。

気が付けば、右手に握られていたはずのメスは、言葉で覆われているのだった。

本当に救いようがない。

書かなければ死ぬ。

嘘をつけ。

お前は、生きるだろう。

無残な姿で、逃げまどいながら、薄笑いを浮かべながら。

今も、頭の中で、逃げ口上を探しているようにだ。

性懲りも無く、こうして言葉で覆い隠そうとしているようにだ。

つべこべ並べるな。

黙れ。

一人になれ。

孤独になれ。 

自分の本当のくだらなさを知れ。

支えられなければ

運動会疲れました。

家に帰ってからも、競争モードを引きずり、「早くする」という事を、にわかに競う子どもたち。

その姿は「ドベ」ばかりで傷ついた自分の自尊心を、取り急ぎ、取り戻そうとしているように、見えました。

 

運動場で競技していた、子どもらの表情は、「間違えないように」「置いていかれないように」という緊張の表情ばかりで、運動自体が、嫌いになりそうでした。

 

それでも、子どもは健気なもんで、帰宅後「運動」から面白さを取り戻すように、遊んでいました。

チューニングしなおすかのように、自分の体を、自由に動かし、心の充電もする。

魂に逆らった「身体」と「心」を、子ども自身が、再調整している。

そんな風に見えました。

 

近年、問題なのは、その再調整(あそび)の時間を、宿題とか習い事とか禁止事項ばかりで、奪われること。

その弊害が表れるのは、大人になってからで、「若者の自殺率が世界で一番多い国」の基礎の一部を、担っているのではないかと思えます。

 

大人として、僕にできる事は何だろう。

この時は、再調整を邪魔しないことかなと、見守っていました。

 

とは言っても、僕もまだ発展途上の人間で、僕にとっても、運動会などは辛い部分もあって。

僕自身、再調整が必要なのでした。

七輪を出して、気ままに火を焚き、ギターを弾いたり、焼いたりしていると、子どもらも妻もやってきて、一緒に夕食が始まるのでした。

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子どもらとの関わりを通して、僕自身も救われ、僕自身も救われることで、子どもも救われる。

社会的動物である人間にとって、家庭というものが必要なのは、そういう見えない調整というか、支え合いの機能を、家庭が持っていているからだなと、感じます。

だから、家庭が壊れると、社会的に生きることも困難になる。

とはいえ、家庭を保つのは、大変なことです。

家庭自体も、動き続ける社会と、密接に繋がっているし、一人の人格のように、あらゆるものに影響されて、動いていく複雑なものです。

努力だけでなんとかなる世界ではありません。

家庭だけに、そういう機能を依存してしまえば、事態はなお深刻になります。

社会全体で、家庭を支え、守り、また、家庭が無くても大丈夫なように補完する仕組みや、マインドセットを持たなくては、この国は、どんどん壊れていくのではないかと思います。

支えられなければ、誰だって支えることはできません。

 

 次の日は、誕生日会をやってくれました。

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なぜか、紙吹雪(笑)

 

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長女はタンブラーを、買ってくれました。

はじめて、おこずかいで、プレゼントを買う。

そういうことが、できるというのを試しているというか、体験したいという気持ちもありながら、僕が喜んで受け取るのを、とてもうれしそうに見ていました。

 

工作好きの次女も、いいのくれました。

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プログラムを作り、ケーキを作り、プレゼントを作り、司会進行。

祝うことが、とてもうれしそうな子どもたち。

祝うことで、自分の心に、ぐんぐん栄養を吸収しているような。

そんな嬉々とした姿でした。

僕自身は、こういうことが苦手で、祝うのも祝われるのも、喜び方が、分からない所があり、素直に喜べる妻を、羨ましく憧れて見ていました。

親子の関わりを通して、メンタリティみないなものも、ちゃんと子どもたちに伝わっているんだなと、思いました。

きっと僕ら夫婦だけでなく、幼稚園での経験や、関わってくれるたくさんの人の愛情も吸収し、こうやって実践しながら、自分のものにしようとしているんだと思います。

ありがたく思います。

 

子どもたちは、外部との繋がりの中で、何かを得ながら、それを家庭や、安心できる場所で試したり、また、家庭や安心できる場所で、得たものを外部で試しながら、育っているんだなーと思いました。

 

僕らだけでは、育ててこれなかったし、これからもそうなんだなと、思います。

家庭であれ、何であれ、安心して試せる場を用意してあげたいと思います。 

 

のはら

三女、のはらが産まれた時に、のはらをひざに乗せて作った曲。

 

youtu.be

 

のはら

作詞作曲 元島生

 

お日様が昇る ほんのすぐその前に

ママを起こして 君はやってきた

大きくなったら どんなことできるかな

綺麗な夕焼け 優しい笑顔

パパとママが 二人で見つけた

とても静かな 風の吹く場所

のはら そよ風をその胸に

のはら 風と唄ってる

 

パパとママがみんなと見つけた

とてもきれいな星の降る場所

のはら お星さまをその胸に

のはら 星と唄ってる

のはら お日様をその胸に

のはら 夢が詰まってる

愛が 集まってくる

 

 

黒い点

黒い点を見ている

あれはゴミだろうか

何かのシミだろうか

僕は横を通り過ぎる

糸くずの固まったものだ

拾う事は出来る

さっと拾ってゴミ箱に入れることは

何の造作もないことだ

だけど なぜか それができない

視界に入れながら

何度もそこを行きすぎる

 

ここは大浴場の脱衣所で

僕は清掃員

それを拾う事は 僕の仕事で

何の造作もないことだ

だけど なぜか それができない

 

人の汗の染み込んだタオルの束を 担いだあと

髪の毛や 剥がされたシップを 手で掴んだあと

びしょびしょに汚れたトイレを 膝をついて拭いたあと

僕はそこを通り過ぎる 

まるで 

一人息子がそこで遊んでいるのを ふと確認する母のように

そっと目をやり また 立ち働く

とても大切なものが  ちゃんとそこにあることに

安心でもするかのように

 

他人の汗で重くなったサウナマットを

汗をたらして 片付けながら

ふと思い出したりしている 

 

あの糸くずは

誰だったのだろうかと

 

 

家族で旅

ミキの将来の夢。忍者。

ずっと行きたがってた忍者村

長時間の移動は、いつもぐちゃぐちゃになるけど、わくわくのおかげで、楽しく過ごせました。

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必死についていく、のはら(笑)
ハラハラでした。

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 慎重なユイと、突進するミキ。

 

キャラクターに似ているのはら。

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帰りの車で3人爆睡。久々に遊びつくしたという感じ。

「連れてきてくれてありがとう!」と素直に喜ぶ子どもたち。

こんな素直に表現する姿は、久しぶりに見た気がしました。

「ありがとう」が自然に出てくるような環境にないのに「ありがとうと言いなさい」とは教えなければならない。

日常は、そういうことの方が多い気がする。

ありがとうを形式で教えるだけでなく、心からそれが出てくる機会を作ることも大事だなと。

そういう機会が、案外少ないんだなと気が付きました。

 

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長野の友人のお家へ。

長野を離れて5年経つけど、年に数回行き来がある。

定期的に会いたくなる。

逆に、近くても、何年も会わない人もいる。

ずっと会わなくても、ずっと近くにいるような気のする人もいる。

人の関係は様々。

りょうたさんは最近、新しいアルバム出して、それが景色のようなアルバムで、とても良かったsasakiryota

唄ってもらって、子どもらも、思い出すようにそればかり聞いている。

出してもらった絵具で、ポストカードに絵を描いたのが面白かったみたいで、帰ってからも絵具を買ってもらっていた。

 

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おそらくこれまでの人生で一番通った店。コトバヤ。
https://www.facebook.com/kotobaya.net/

本好きのゆいは、気が付くとどっぷりと本の中へ。

本はいくらでも買ってあげたい。

みきとのはらは、店先で遊んで、陶器の傘立てをしっかり壊してました。

すまん。

 

 

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りょうたさんの実家でもある茶房パ二。

http://www.pani.jp

夫婦にとって大事な場所の一つ。

久しぶりに行く場所は、実家でも多少緊張するけど、ここは不思議と落ち着く。

人たちも柔らかい。空気も水も柔らかい。

ここがあるというのは、遠くにいても安心する。そんな感じの場所。

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子どもたちが、魔法使いと呼んでいた佐々木さん。DOKI - 工房土喜

何年か前に話した時「結局みんな自分で自分を苦しめているんだよね」と言って、瞑想のことを話してくれた。

僕はそれ以来、瞑想をはじめ、仏教の思想に大きく影響を受けた。

今回もまた、いろいろと話しが面白かった。

子どもらが行くと、すぐに土を出してくれた佐々木さん。

前日に、すぐに絵の具を出してくれた、りょうたさんと、同じタイミングというか、コミュニケーションの取り方というか。親子だなと思う。

 

 

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 みいちゃんの始めたタイマッサージのお店、ごろん

モンゴルのパオ。鳥の声。山の音。心まで楽になった。

長女は日記にこのパオの事を書いてました。

パオの周りをぐるぐる回って遊ぶ長女は、こどもに戻ったという感じでした。

 

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家族での生活は、楽しい。

でも、家族だけだと、親は親から離れられなくなり、子も子であらねばならない。

長野での時間は、僕ら自身が「親」から離れられたような感覚があった。

子どもたちも、そのことが、うれしかったところもあるのかなと思う。

日常の中にも、もっとそういう時間を作りたい。

もっと僕ら自身が、いろんな人たちと遊ぼう。

旅すると、分かることが多い。 

書けば書くほど

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書けば書くほど、書けるようになる。

読めば読むほど、読めるようになる。

若いころに読めなくて、諦めていた本が、スラスラと読めた。

書けないと諦めていた物語が、スラスラと書けた。

きっとやれないことはない。

やりはじめれば、これから家だって建てられるし、ピアノだって弾けるようになる。

飛び込む勇気と、無心がほしい。

歳をとると出来ない事が増えるのは、余計な事が増えるからだという気がする。

無心になるのが難しくなる。

いつまでもガキで、頼りなく、図々しく、バカバカしいが。

それでいい。

もっと無心になりたい。

 

 

心に太陽を 

心に太陽を 

作詞作曲 元島生

苦し紛れの嘘は  ドブに落ちて 川を流れてしまって

海から雲になって  雨を降らして 今 僕の頬を濡らした

誰かを恨むなら 深い森に迷い込んでいくようで

誰かを憎むなら  底なし沼に いつの間にか 

だから

心に太陽を 雲を晴らして 全部忘れてしまって

心に太陽を 雲を晴らして 全部無くしてしまって

「生きていく」ということは 一人ぼっちで歩いて行くということで

例えばこれから 暗い闇に突き落とされてしまっても

あの雲の上には 太陽がしっかりと控えているからさ

雨だろうが 風だろうが 闇だろうが 地獄だろうが 行くのさ

心に太陽を 雲を晴らして 全部忘れてしまって

心に太陽を 雲を晴らして 闇を晴らしてしまって

心に太陽を 風を吹かして 全部無くしてしまって

心に太陽を 全部忘れて 全部忘れて 歌って