元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

演劇つつじの乙女レビュー

 三条会の「つつじの乙女」は「観てきた」というより「行ってきた」というのが近い。

夕暮れの冷たくなる空気。色の変わっていく山々。闇に吸い込まれる声。あれから一ヵ月近く経ってしまったが、どこか遠くに行ってきたような気がしている。

 三階建てのビルの一階。広間の中央には、おもむろにバイオリンが置かれ、その周りを椅子が囲み、人々が待っていた。

女性が物語を語り始めた。

トキコという働き者の女性が、自分の村から遠く離れた山の祭りで、一人の男と恋仲になる。二人は行き末をちぎりかわし別れる。一日の畑仕事が終わり、トキコは毎晩、山々の向こうを眺め、男への思いを募らせていく。ある日、ひとつの火がゆっくりと山を越えていくのを見る。「そうだ。山を越えて会いに行こう。夜中に出て朝に帰れば、誰にも分かりはしない」トキコは、夜中、山を越えて男に会いに行くことにした。

 ここまでを神妙に語り、「さぁそれでは!」と空気は一変する。「今日は皆さんにも山に登ってもらいます。大変険しい山ですので準備運動をします」と、女性はバイオリンを持ち、おなじみのラジオ体操が奏でられた。謎だったバイオリンの用途が分かった事のおかしさや、小さな会場だったので、座ったままのラジオ体操で「腕を小さく!」などと言われ、一気に会場の空気は笑いに包まれた。スーツの女性が、添乗員さながら旗を持ち、僕らはそれに続いて外に出た。クマよけの鈴まであった。ビルの非常階段を屋上まで登る。「足元険しくなっているので気を付けてください!」全然険しくないのが笑えた。

 わくわくと屋上へ上がると、眼前には、幽玄な山々がそびえていた。この山々こそ、この民話の舞台になった実際の山々。つまり本物の舞台装置。

そこに一本の赤い糸が、左右にピンと張られていた。用意された客席に座ると、山々に通る一本の赤い道にも見える。その糸の右端には、若い男が、遠くを見たまま微動だにせず立っている。客席の後ろから、トキコが歩いてくる。全身に、いくつもの山を越えた疲労と、しかし、湧き上がるような喜びを、漲らせた女。

男の反対側、赤い糸の左端に辿り着き、少しずつ男に近づきながら、言葉が交わされていく。トキコは毎晩、険しい山をいくつも超えて、男に会いに行くのだが、男はやはり微動だせず、言葉だけを発する。全身で愛を表現する女と、動かない男。このコントラスト際立っていた。セリフもそれに追い打ちをかける。二人のセリフには、シェイクスピアロミオとジュリエット三島由紀夫卒塔婆小町が採用されていたが、男女が逆で使われていた。

「おーロミオあなたはどうしてロミオなの」これが「あートキコ、お前はどうしてトキコなんだ」という具合。女の積極性が際立ち、日常、無意識に採用しているジェンダー意識は、静かに崩れていく。振り返れば、そういう小さな仕掛けが、徐々に僕らの意識を非日常へ誘導する仕掛けとなっていたように思う。

トキコが男の側に行き着き、何かを手渡したところで、一部終了。客は下山させられる。まるで演劇アトラクション。下山する時の気持ちは、タイムマシンで古い物語の一部始終を見てきた未来人。めいめいに感想を語りながら(現実に戻りながら)降りて、広間に落ち着く。そして、また物語の続きが、語られる。

 こうして、計三回。僕らは現実世界と、過去とを行き来した。

屋上での物語は、闇を深める本物の舞台装置(沈む夕暮れ)ともに、狂気を増し、演者の様相も、憑依されたかのような色合いを帯びた。観客は、自分たちの身体を使うという身体性も手伝って、物語の世界へと入り込んだ。一方で、一階広間の現実世界では、ラジオ体操や、ちょっとしたアトラクションを通して笑いの量も増えていった。

つまり、屋上で、非現実への引力が強くなるごとに、一階で現実に引き戻す力も強くなっていた。これが、意図的だとしたら、ものすごいことだ。この劇団は、見えないものを扱っている。それは、とても危険な誘導。演劇という「意識誘導装置」を扱う未来人。あるいは古来人か。

 物語の狂気は極まり、男がトキコを殺してしまう。舞台の色合いとして象徴的だった赤い糸は、男によってプツリと切られ、物語は終焉を迎えた。

 自然環境という、人間の力を超えたものを利用し、意識を誘導させる舞台装置。その舞台に張られた赤い糸は、その危険な舞台装置が、暴走しないように、張られた結界のような役割をしていたのかもしれない。糸が切られ、物語が救いようのない終焉を迎えたその時、僕の意識は、行き場をなくしたように思う。自分の気持ちをどう処理すればよいか分からない。というより、自分が今、どこにいるのかが分からない。唖然とし、倒れたトキコを眺めていた時、エンディング曲が流れ、登場したのは、なんと、犬。

 

 倒れた人間トキコの前に、突如現れた犬トキコ。演出家の関美能留さんにいざなわれ、現れた犬トキコは、走って欲しいという演出家の意図に反して、座り込んでしまう。ふっと、会場は笑いに包まれ、最後は犬トキコと、人間トキコが抱き合って、さまよえる意識は決着を見る。「トキコー!」とキャスト全員が叫び終幕を迎えた時、救われたような安堵感に包まれた。あれは、いったい何だったのだろうか。

 

 アフタートークでは、面白い話がたくさんあったが、関美能留さんの話では、犬の劇団員が欲しかったとのこと。もし、あのまま犬が登場せずに物語が終わっていたら、僕らは、物語の世界に取り残され、いわば未来人が、過去に取り残されるようなことになったように思う。あそこで、人間ではない存在が現れることで、僕らは意識のタイムスリップから強制的に戻された。そういうことだったように思う。

人間は人間だけで生きてはいけない。人間を人間たらしめているのは、人間以外の存在に他ならない。我々を動かしているその人間以外の力(自然環境という舞台装置)を、存分に利用しながら意識を完全に誘導し、そして、人間ではない存在(犬)によって完全に引き戻す。関さんがどのような潜在的意図で、犬を劇団員にしたいと思ったのかは、分からないが、それはとても危険な力を持ってしまった人間の、本能的な要請のようにも感じる。こんなにも、危険な力を持ってしまった人間の、一筋の良心。

意識というのは危険だ。我々の意識は平気な顔して時空を超え、集まり、流れ、何かを動かしていく。戦争も平和も、僕らの意識が作りだしている。兵器を作るのも、使うのも意識の仕業なのだ。我々の意識はもはや、世界を一発の爆弾で消し去る力を持っている。

我々は、これにどう抗うのか。それは、世界規模の大きな話のように見えるが、実はその答えは、我々の中にこそある。

演劇は危険だ。意識を集め、作り出すことができる。その力は、平気で時空を超えていく。演劇や物語の力を恐れ、検閲を行った権力者たちの危惧は当たっている。志半ばで、鞭に倒れた沢山の表現者たちを想う。

 

時代は、表現者たちを押しのけ、もはや我々小さな民衆には、科学や権力やその暴走に、抗う術も力もないように見える。

しかし、僕は、勘違いしていた。民衆の力は、死んではいなかった。むしろ、こんなにも強かに、こんなにも自由自在に、強大な力と共にあり、そして、確かな希望をも、着実に育てていたのだ。一匹の犬を引き連れて。