元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

問われれば

【問われれば】


なぜ唄うのかと問われれば

ひとりぼっちだからと答える

 

世界はひとりぼっちの集まりだ


木立もビルも揺れる葉も

赤子も線路も夕立も

この世に寂しさを持たないものは

何もない

 

便所でひとり

光が射してきて

これ以上に綺麗なものがあるだろうかと思う

 

唄うように光は強くなったり弱くなったりした

 

僕もまた唄おうと思う

 

なぜ唄うのかと問われれば

ひとりぼっちだからと答える

 

居場所のない社会

駅から続く、昔ながらの商店街。シャッターも増えてきたが、八百屋や魚屋は元気だ。40年も若さを失わない、古いマネキン。学生が集まるクレープ屋。いつも同じ人がいるパチンコ屋。平日は、人もまばらだ。

近年、駅周辺の開発で、商店街を取り囲むようにして、次々に新しいビルやマンションが建てられていた。街は禁煙になり、ゴミも減り、商店街だけが、古びた色をしていた。

古い商店街と、新しい住宅街の間に、その公園はあった。きれいになっていく街に、押し出されるようにして、公園にはダンボールハウスが増えていた。

これは、ある子どもと、ホームレスのおっちゃんの、小さな出来事だ。

 

「おっちゃん!なんでここに住んでんの?」

「ん?なんでやろな~。じゃまか?」
「ううん。別にええよ。俺も後ろに基地作るし」
「さよか。ジュース飲むか?」
「ええの?」
「かまへんよ」
「おおきに」
「おう」


「おっちゃん!おるか?」
「ん?おー、あの時の坊主か。なんや、また学校の帰りか」
「うん。あんな、おっちゃん。これ預かってくれへん?」
「なんや。これ。テストかいな」
「うん。家もって帰ったらしこたま怒られんねん」

「なんでや?」

「点数低いねん」

「どれ、なんや、20点かて、えらいもんやで!」

「いやあかんねん。20点では」

「ふーん。厳しいもんやな。そんなもん捨てたらええやんけ。おっちゃんなんか、ぎょうさん捨てたで~」
「いや、持っててほしいねん」
「ふーん。まあええよ。そこ置いとき」
「ありがとう」

 

学校帰り。いつものようにおっちゃんのいる公園に寄った。
柵がしてあり、入れなくなっていた。
おっちゃんのダンボールの家はグチャグチャになって隅っこにあった。

 

「なあなあおばちゃん。ここ何で入られへんの?」

「あーこれな。ホームレスが住みよるやろ」
「ホームレスてなんや?」
「家無い人の事や」
「家あったやんけ」
「あんなもん家ちゃうわ~。みんな迷惑しとったやろ」
「してへんよ!家壊すなよ!俺の基地もあってんぞ」
「そんなんおばちゃんに言われてもホームレスのせいやがな」
「違うわ!大人のせいやろがい!」

 

 

強制撤去が行われたのは、近く国際会議が行われるからだった。
オリンピック開催でも、ホームレスの排除ための「オブジェ」や「寝ころがれない椅子」が作られている。
富山も例外はない。
夜中、駅周辺に水を撒く自治体もある。
公園に住まざるを得なかったおっちゃんの家が、強制的に壊される光景。
子どもの居場所と、おっちゃんの居場所は国際会議のために奪われたのだった。
おっちゃんが安心して居れる場所をどう作るか。ではなく、どうやっておっちゃんの見えないきれいな街にするか。
そういうマインドセットで税金や芸術が使われている間は、どんな居場所を作っても、僕らの社会は居場所のない社会なのではないだろうか。
「持っててほしいねん」
そう言った子どもの心に思いを馳せたい。
我々大人は、彼の心の最も大切なところを排除する社会を作ってしまっている。

 

お前が目を覚ませ

 

紅葉の効用は、光陽を航洋することによる、高揚。賞賛を乞うよな文章にて、ご機嫌を伺おうというわけだが、勝算はない。許しをこそ、請いたい。

韻を踏むというより、漢字で暇を踏んでいる感じ。暇なのかと言われれば、やることは目の前に山積しているのであって、現実を逃避する方法に、ついに事欠いた結果が、このような醜態。

 

はたしてイヤホンからは、吉澤嘉代子が東京絶景を歌っている。東京は美しい。終わりのない欲望。むせるまで笑ったって跡形もない昨日。野良猫が漁るゴミ捨て場に、額縁をはめてみる。東京の絶景。僕もそう思う。

 

 最近は移動が多く、電車の中が、仕事場になっているわけで、しかし、今日はどうも集中できない。こうやって文章を書いていると、心と文字が近づき、そのまま仕事へと移行する算段。しかし結果は散々。

 お付き合いいただいた方には、どうお詫び申し上げてよいやら。お詫びのしようもないので、しませんが。

 

仕事とは、つまり集中。集中することができれば、やるべきことは分かり、出来る。

集中を阻害する様々が、害悪。害悪はいつも内面。

 

 「え~、私のおあとが、、、掃除をすることになってるんですが」志ん生の間。すごすぎる。

あの間は音楽だ。演劇だ。小説。絵画。

 

 絵画。今、丸の内の三菱一号館美術館で、フィリップスコレクションやってる。モネ、ゴッホ、ピエールボナール、シスレージャコメッティ。素晴らしかった。美術館が今、一番の癒し。フランダースの犬のネロの死に方はいい。絵を見ながら死ねるなんていい。

 

 ジブリ魔女の宅急便。13歳の子どもであっても、誰も知らない土地であっても、取り柄がないと思っていても、人のことを想いながら懸命にやっていれば、必ず手を差し伸べてくれる人や、環境が、ちゃんと現れるもんだ。学歴とか職歴とか資格とか、そういうんじゃなよ。いいかげん目を覚ませ。

 

 そろそろやるべきことをしようか。お前が目を覚ませ。

 

 日記が病んでる。自分が病まないためだろう。文章が急ぐいでる。落ち着くためだろう。文章はやっぱり実態と違うよ。むしろ真逆。

この方法で仕事に移行するのは不可能ではないが、いい仕事にはならないな。

 

 いいかげん目を覚ませ。

 

 

 

 

 

ゆれる

タスクをこなす。

ひたすら消していく。

何を成し遂げたのだろうか。

何を成し遂げたいのだろうか。

 

僕の日々の中で、最も大きな意味を持つ行為は、最も小さな行為。

この世界の平和は、僕の内面にこそ完成する。

自分自身に取り組むことこそが、最も大きな平和への行動だ。

 

嫌われたっていいじゃないか。

せっかく出会えたんだもの。それさえも貴重じゃないか。

 

息を吸いながら吸っていることに気づく。

吐きながら吐いていることに気づく。

 

酒が飲みたい。そう書きながら唾液が出る。

生きづらい。神様よくぞ。それでいい。

 

あれは何だろう。あの態度。

誰の内面にも生命の歴史が刻まれている。

誰の遺伝子にも、人殺しがいるし、聖人がいる。

意味など大したことじゃない。

考えるな。

 

酔っぱらい。障がい者。きれいな人。人を指さすな。黒縁めがね。

喜びこそ苦しみ。

 

感じることさえいいかげんなものだ。

今、目の前、それだけ。

 

また動く必要があるから疲れるのに、ごまかしたら、いつか動けなくなるにきまってる。

 

今の感情はすべて必要なんだよ

 

僕も電車もゆれる。

手すりも。駅も。空も。未来も。

全部ゆれる。

 

 

習慣の悪魔

パソコンを、リュックごと家に置いてきた。

これはちょっとした勇気を必要とした。やるべき仕事は、常にある。
いつもの電車。だが、傍には、ギターとウクレレ。肩掛けには2冊の単行本と携帯と蜂蜜。
今日は、仕事を休んで、施設にライブに行く。
ふらりと旅行にでも行くような気分で行こうと思うけど、なかなか頭は切り替わらないもんで、あれこれ仕事のこと考えてしまう。よくないな。
でも仕事にまつわるものを、家に全部置いてきたのは正解だった。直接まつわるのは携帯くらいだ。「習慣」という魔物の抵抗が、僕に携帯を握らせ、この文章を書かせている。
でも、そうはいくか。まつわることなんか書かないぞ。

傍にギターがあることが、とても安心する。抱きしめたいような気持ち。
抱きしめてたら、危ない人に思われるのでやらない。
本でも読むか。少し眠るか。イヤホンを探る。ギター弾きたい。ウクレレそっと弾くくらいなら大丈夫かな。やってみるか。とりあえず携帯の電源切ってみるか。頭よ止まれ。

 

枯渇

通勤電車。帰り。30分間。じっとしていられないような、いたたまれないような。

疲れからか。

こういう時がよくある。

そんな時は、思いつくままに何か書いてみる。

「枯渇」。ただ浮かんだに過ぎない。

渇き枯れた状態。すべて無くなった状態。

しかし、乾きではない。渇き。

乾く。洗濯物が乾く。状態。

渇く。愛情に渇く。感情。

渇きは人を苦しめる。

「乾きたくない」という「渇き」。

求めなければ、渇くことはない。ただ乾くだけだ。

僕の人間に対する信頼は、時に乾く。渇くことは避けている。

渇くのは苦しい。御免皓むりたい。

しかし、だからこそ枯渇はしない。

休息を取るとか、遊ぶとかすれば、またそのうち潤ってくる。

愛情や信頼を枯渇させるものがあるとすれば、それは乾きではなく渇きだ。

外的な要因ではない。内的な切実な希求だ。

愛情にはハンデがある。乾くには、土台が必要だ。自己肯定感とか、愛着形成とか言われる。それがなければ、乾けず、渇く。それは苦しいことだ。

しかし、渇きこそが、世の中を積極的に動かしてもいる。もっと欲しい。もっと潤いたい。もっと褒められたい。もっと愛されたい。街を歩けば、看板から、ネオンから、音楽から。人と関われば、言葉から、容姿から、その声は聞こえる。

我々の世界は、いつの間にか、渇きをエネルギーにしている。

しかし、だからこそ、苦しさは増し、そして枯渇に向かっている。

エネルギーの転換が求められている。

いつか枯渇してしまう石油や石炭ではない。太陽光や風を利用したエネルギー。

人間の心も、そこから離れていない。

渇きのエネルギーから、気づきのエネルギーへと変換しなければならない。

原始仏教の命題は、そういうエネルギー転換だったのではないかと思う。

自分に取り組むということこそが、世界に取り組むということだ。実践したい。

苦しみは、できれば味わいたくない。

しかし、苦しみこそが、気づきをもたらしてもくれる。

電車の中の、いたたまれない気持ちが、僕に枯渇という文字を書かせたように。

やはり苦しみから始めるしかない。そういう時代だ。

電車が駅に着く。