元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

静かな言葉

嘔吐 

 

台所では
はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその肉を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が
切られた人間を笑ったという
切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ
かつらをかむり
義足をはいて
やっと人の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚き火をしながら
ごく
自然に笑ったという

 

 

 このブログでも、以前に紹介したハンセン病の詩人塔和子球根 塔和子 - 元島生

思うところあって、塔和子の詩を、また紹介したい。

ハンセン病の強制収容の生活の記録は、多数残っているが、それは文学作品としても、高く評価され、ハンセン病文学という一つのジャンルを形成している。

僕は一時期、ハンセン病文学の虜で、全集を読み漁り、療養所にも行き、住人の方々ともお話しさせてもらった。

その言葉のリアリティは、恐ろしいものがある。人間とは何かということが、体験的に迫ってくる。

僕が初めてハンセン病に関する言葉で、深く心をつかまれたのは、ハンセン病患者が原告となり、国と闘った国賠訴訟、その闘いに弁護士たちを起たせる契機となった文章。九州弁護士会連合会に送られた、原告の島比呂志さんの手紙の文章だった。

僕はその文章を、何かのきっかけで見つけ、何度も読んだ。当時10代、貪るように言葉を探していたであろう僕の心に、それは強烈に残っている。

抜粋する。

法曹界は「砂漠」である。らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だと言われ出して、どれだけの歳月を空費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたこ とか。それは無実の死刑囚にも匹敵する。」
「黙認している法曹界は存続を支持していると受け取られてもしかたがあるまい。」
「傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である。」

 

この文章に対して、強烈な反省を述べていた弁護士の手記だったと記憶している。

 

ハンセン病文学は、人間というもの、差別というものを、自分の中に克明に浮かび上がらせる力がある。

傍観を決して許してはくれない。

僕たちは、人間の足を切り落として、笑うかもしれない人間なのだ。

 

近年、巷には、まるで着火剤のような言葉があふれている。

人口甘味料と香料で、パクっと食いつく言葉が踊る。

手軽に拾われてきて、装飾品のように、武具のように、ある意図をもって並べられる言葉。

疲れる。

自分も知らず知らずにそうなっていないか、注意したい。

 

ハンセン病療養所を訪問した当時、500人くらいがそこに住んでいたと記憶している。

しかし、誰一人いないかのように、静かだった。

あの静けさは、何だったのだろうと、今も考える時がある。

 

塔和子の詩の中に、ハンセン病文学の中に、あらゆる詩の中に、やはり、あの静けさを感じる時がある。

 

いま、静かに、言葉を感じたい。

じっくりと、沈みみたい。

 

今日「言葉の交換会」というイベントをやる。

言葉の奥に、みみをすませたい。

 

そういうことを、日常に入れていきたい。

 

 

物語を採用しない生き方~杉田水脈発言から~

「同性愛者の自殺率は、6倍も上がる」
それを笑って話す国会議員と取り巻き。
寒気と言うのか、嫌悪と言うのか、自分自身の負の感情によって自分の心が汚れていくような感じがした。
辛くて最後まで観るのに骨が折れた。
何人かの友達の顔が浮かんだ。

今回の杉田議員への抗議活動を「言葉尻をとって騒いでいる」と批判する人達がいるが、それは言い当てていないと思う。
僕も含め、反応している人たちの多くは、きっと言葉の裏にある、差別意識や、排除理論を見抜いている。

世界はお金によって統一され、人々は個に分断され、様々なことは多様化し続けている。信じるべき物語が無い時代に、僕らは共同性を失い、慢性的な鬱の状態になり、日々、むさぼるように自分を規定し起動してくれる物語(言葉)を探している。

しかし、言葉や物語も、消費の中に組み込まれていて、僕らはもはや、感動しなくなってきている。
より強い物語を求めて、人々はより過激で、分かりやすい思考に頼るようになるだろう。
僕はそれが怖い。その怖さと、気持ち悪さを、きっと見抜いていると思う。

どのような物語を信じるかは、自由だ。
しかし、その物語が、誰かを排除したり、深く傷つけたり、殺したりするかもしれないことには、注意を払いたい。
そのために、感性がいる。

いま僕らは、物語を離れて、感性に頼る必要がある。
できれば、どの物語も採用せず、いま、どこに生きているのかを、よく見る必要がある。
何にも頼らず、見れるようになる必要がある。

彼女達か笑ってしまうのは、人間を見つめる感性よりも、信じている物語を優先しているからだ。
だからなんの罪悪感もなく笑え、反省もできない。

それは「障がい者を殺すことが世界平和につながる」その物語を疑いなく信じて、実行に移し、いまだ反省できない若者と、質的には変わらない。

僕らはもっと賢くなろう。
物語に頼らないでよい生き方を、摸索しなければいけない。

いま、感性は、僕ら力の弱い市民が持てる、最大の武器だ。

 

 

「鬼になる気はあるの?」

 唐突に言われ、僕は箸を置いた。

平和な朝食中に、苦難はやってきたのだ。

人生には、鬼にならなければならん時も、あるのだろう。

腹を括り、妻を見据えた。

 「何があった」

そう聞くと

 「ゆいが節分の豆まき楽しみにしてるの」そう言うのだった。

そこで私は腹を決め、娘を見据えた。

そして心を鬼にして、言ったのだ。

「人に豆を投げつけるとは何ごとだ」

 

 

 

見る

雷が鳴っていた
今にもざーと来そうな街
僕は駅に急いだ
ギリギリ駅舎に滑り込み
ホッとして 灰色の雲を 見あげた
その時 はっきりと僕の世界は変わった
まるで磨りガラスのメガネを外したかのように その時 雲がしっかりと見えた
それは長く忘れていた感覚だった
僕は いつのまにか 何もかもを見てはいなかった
全ては知っている世界の中に収まり
ぼんやりとしか見ずにも 日々を過ごすことが出来るようになっていた
僕を悩ませるものは すべが見えないものだった
急いで逃げ場を探している鳥達
汚れたシミのついた駅舎の屋根
屯して笑う若者の隆々しい背中
早くもヘッドライトを付けて、ロータリーに入るバス
ひとつひとつがよく見える
それらと共に今ここで生きている

それは救われる感覚だった


見ることだ
今どこに生きているのか
よく見ることだ
そうすれば死ななくてすむ

苦しみから始める

 

女性被害者とバックラッシュ

最近、気になっていることがある。

女性の権利運動に対する攻撃や、レイプ被害を訴える女性を非難するという人たちの存在。

人権運動という視点で見れば、いわゆるバックラッシュ

それは、人権運動には付き物で、歴史上必ず起こっている現象のようだ。

強い怒りを伴い、黒人運動でもたくさんの人が殺された。

僕自身もレイプ被害を訴える女性の運動を応援し、SNSで記事をシェアしたら、とたんに攻撃を受けた。

「攻撃」と書いたのは、そこに議論の余地がないからだ。

彼らは「論破」という呪文を携え、悪である対象をやっつけようという様相を呈している。

しかし、勇敢な勇者には見えない。

彼らの論破という呪文は、弱者を守るためではなく、むしろ自分たちを守るために、弱者にさえ向けられているように見える。

そして、僕が最も感じるのは、彼らの本当の怒りの対象は、今、目の前で攻撃対象にしている人ではないのではないかということ。僕や女性に向けられているようで、実は違うところに向けられている。彼らは誰と戦っているのだろう。様々な言葉を並べながら、何か別の言葉を語っている。

それが、どういう言葉なのかが気になっていた。

結論から言うと、僕はこの現象は「不全感をジェンダーによって補わざるを得ない人達の怒り」という風に分析している。

「俺たちは強いんだ。だから堂々と生きていていいんだ。」

そう言っているのではないか。

男の子は強くあれと、家庭を持って一人前だと、例えばそういうジェンダー規範に対するバックラッシュを多く含んでいるのではないかと感じている。

 

ジェンダー不全感

 

ジェンダー規範があることによって、生まれる不全感というものがある。

例えば、「30過ぎて家庭を持っていない」、「社会的地位のある仕事についていない」

そんなことは、本来は自由であり、何も惨めに感じる必要はないのだけれど、現に社会にはそういうジェンダー規範は存在し、育った家庭によっては、強化されている。

人によっては、そういう目には見えない要請に答えられないことは、大きな不全感を生むだろう。

そして、その不全感は、やはりジェンダー規範に乗っ取って埋めるしかない。

その規範に強くさらされてきた人ほどである。

例えば、男の子は強くありなさいと育てられたが、強い自己として存在できないことで生まれる不全感があるとする。それを埋めるためには、自分は強い自己だと思いこむ必要がある。そこで必要となるのが「倒すべき悪」の存在だ。さらに「倒すべき悪」は強い方がいい。社会悪という大きな敵に仕立てる必要がある。そうやってある種の政治的アイデンティティを強化し「男性的」なジェンダー不全感(仮にそう呼ぶ)を補っている層がいるように思う。

そういうことを背景にした政治的主張は、他の意見と議論が成立しない。前提が世の中を良くすることではなく、自己の不全感を埋めることが目的だからである。議論というより、自分たちの安全圏を壊そうとする絶対悪を断固許さないというような、色合いを帯びる。

女性が権利を主張することに対して、「許せない」と怒りをあらわにする人たちも、そういったジェンダー不全感を背景にしていると考えられる。

今回の伊藤詩織さんに対するバッシングは、現政権にとても近い人物が加害者として登場したため、男性的ジェンダー不全感を、政治的なアイデンティティで埋めてきた人や、ジェンダー規範に対する潜在的怒りを抱えた人達の怒りを刺激した。

そういうことではないかと感じている。

 

では、僕自身はどうだろうと考えてみた。

僕は、被害を訴えている女性を中傷したり、怒りをあらわにする男性に、嫌悪感を感じていた。しかし、その正体というか構造が自分の中で合点がいった時、誤解を恐れずに言うと、彼らも僕も同じなのだと感じた。その言動を肯定するという意味ではなく(決して肯定はできない)、僕も彼らも多くの人々も、同じように不全感という苦しみを持つ一人なのだという気がしたのだ。

僕は、たまたま家庭を持つことができた。故にその領域でのジェンダー不全感を回避できた。だから、権利を主張する女性には腹は立たないし、むしろ応援している。

しかし、これが、僕が家庭を持たず、親や社会から「いい歳をして」という目にさらされ「なぜおれだけ」という不全感を抱いていたとしたら、同じように応援できていたかは分からない。

 つまり、そのように、バックラッシュの背景には、いくら理論武装していても、その背景に、何らかの不全感を根拠にした極めて個人的な怒りが、隠れているのだ。

怒りというものは、反射的に沸いてくるものだから、沸いてくること自体は仕方ない。

しかし、沸いてきた時に、その怒りの正体を、冷静に見つける必要がある。

自分は何に対して怒っているのか、それを見つめない限り、無意味に人を傷つけることになる。例えSNSであっても、それは暴力であり、無差別殺人と質的には変わらない。

本当に戦うべき敵とは戦っていないのだ。

そのことを知る必要があるのではないか。

 

不全感を持っているのは誰か

 

僕にも不全感はある。

僕は社会活動を仕事にしている。仕事とプライベートの区別があまりなく、生き方がそのまま仕事になっている。

では、これは、僕が望んだ生き方かと問われれば、表面上はそうであるが、コアなところでは違う。

僕の両親は、障がい者運動の活動家だった。幼い頃、障がい者やその親や支援者たちの中で育った。「人生の勝利者になれ」とか「男らしく強くあれ」とは教えられなかったので、強くなくても、人生がうまくいかなくても、誰かを敵に仕立てる必要はなかったが、「弱い人にやさしくしなさい」と言われて育った。

必然と、そういう仕事を選んできたし、親に認められる生き方を選んできた。

しかし、30も半ばにして、これが、本当に自分の望む生き方かと問う自分が出てきて苦しくなってきた。

そして、僕は、このバックラッシュの問題を考える中で、はたと自分の存在に気が付いたのだ。

僕もまた、彼らと同じように、不全感を埋めたくて、あらゆる言動や生き方を選択してきたに過ぎないのだと。

人間は誰しも不全感を持っており、それを埋めようとして、強くあろうとしたり、やさしくあろうとしたり、社会的立場を得ようとしたり、欲を満たしたり、家庭を持ったり、宗教に入ったり、誰かを非難したり、罵倒したり、いじめたり、殺したり、サリンを撒いたりするのではないか。

 

 僕はこの間の、オウム真理教の教祖含む7名の死刑執行のニュース依頼、名だたる凶悪犯罪者の背景について調べ、思いを巡らせている。

皆、誰と戦ったのだろう。

これまでの文脈で言うならば、誰も、本当の敵とは戦ってはいない。

虐待やDVなど、人格形成に大きな影響を与える時期の排除感は、拭えない不全感をもたらすだろう。

そして、排除は重なる。

重なる世の中になっている。

みな不全感を抱える一人である。そういう意味において、どんな凶悪犯罪者も、僕も、皆、変わらない。

その比重の問題だし、それを強化してしまう社会の問題である。

では、僕らは誰と戦うべきなのだろう。

 

苦しみから始める

 

僕は今、僕らが出来る戦いは「自分たちの苦しみを知る」という戦いではないかと思っている。

2500年前に始まり形を変えながら世界へ広まった仏教の基本原理は「人生は苦である」という教えである。

僕はこの意味がよく分からなかった。人生には喜びもある。そこを目指してもいいのではないかと思っていた。否定しなくてもいいのではないかと。

しかし、今回この問題を考えるにあたり、自分なりに納得できた。

 つまり、僕ら人間の世界のあらゆる苦しみは、僕らの生にセットされている「不全感」や「苦しみ」の正体を見ようとせず、何かで埋めようとするがために、さらに膨らみ、傷つけ合う構図になっているのではないか。

だから、まず前提として、自分の苦しみの正体を知るということから始めたのではないだろうか。

欲望も執着も怒りも愛情も、すべて苦しさを生んでいく。

だから、それらの正体を知り、まずは自分たちは苦しさを持った存在なんだと正直に気が付くこと。

そして、湧き出てくるあらゆる感情を制して、自分を整えること。

それが大切だと初期仏教では教えているのではないか。

 

 オウム真理教も最初は、純粋にそういうことを考えたのかもしれない。信者たちは真面目な人達だったのではないだろうか。

しかし、大きく間違えていった。人間とは恐ろしいものだと思う。なぜそうなっていったのかは、また別の切り口で考えなくてはいけない。

 

 虐待や性犯罪や、連日、悲惨な事件が続く。震災も含め、人格形成の時期のトラウマを克服していくための、育ちなおす包摂的環境が、どんどんなくなっていることを、僕は強く危惧している。

その表れが、若者の自殺や引きこもり、今回のバックラッシュにも表れているように感じる。

 

僕は今、苦しみに帰るべきだと思っている。

僕たちは苦しいんだと、満たされないのだと、正直に語り合うことが、なによりもまず必要だと思っている。

このように、社会的なことを考え、何かアクションを起こそうとすること自体が、僕にとっては、僕自身の不全感を埋める行為であることを自覚しながらも、僕は僕の苦しさに正直になることから始めたいと思っている。

 

 

信仰

僕は女性を非難したくない

例え自分がみじめな男だと気づいてしまっても

僕は補助で暮らしている人を非難したくない

例え自分が理不尽な目にさらされていても

僕は誰かに出ていけと言いたくない

例え自分が追い出される恐怖の中に生きていようとも

僕は誰かを敵に仕立て上げたくない

例え自分の居場所が分からくても

僕は優しく生きていきたい

例え優しくされなくても

認められなくても

みじめでも

悲しくても

 

どんな人にも必ずやれることがある

僕自身にも

きっといつかやれることがある

 

湧き上がる恨みを見つめ

静かにそれだけを信じたい

 

 

 

 

 

 

 

 

そうまでして

 

そうまでして自分を守らなければならないのだ

在日だ、安部だと絶対悪を作り上げてまで

レイプを告発した勇気ある女性を誹謗中傷してまで

そうまでして自分を肯定しなければ、自分が社会の中の意味ある一人だと思えないのだ

結婚できない自分

社会的地位が低い自分

本当はどんな自分でもいいはずなのに

みじめな思いをしなければならないのは、社会の底を流れるみんなの意識だから

女性専用車両に反対してまで

生活保護者をバッシングしてまで

自分は正しい答えを分かっていると思いこんでまで

たばこ臭い部屋で、ネカフェで、パソコンをのぞき込み、また誰かをバカ扱いして、ひと安心するのだ

男の子は強くありなさいと教えたのは誰だ

強くあるために、僕は今日も、誰かをバカにする

弱い人間は死ねと書き込む

女性が権利を主張するのを許せない

どこからか沸いてくる怒りを

脅迫まがいの言葉に込める

強くあるために

僕は今日

世界で最も弱くなる