元島生

文章・音源・詩・活動・いろいろ

信仰

僕は女性を非難したくない

例え自分がみじめな男だと気づいてしまっても

僕は補助で暮らしている人を非難したくない

例え自分が理不尽な目にさらされていても

僕は誰かに出ていけと言いたくない

例え自分が追い出される恐怖の中に生きていようとも

僕は誰かを敵に仕立て上げたくない

例え自分の居場所が分からくても

僕は優しく生きていきたい

例え優しくされなくても

認められなくても

みじめでも

悲しくても

 

どんな人にも必ずやれることがある

僕自身にも

きっといつかやれることがある

 

湧き上がる恨みを見つめ

静かにそれだけを信じたい

 

 

 

 

 

 

 

 

そうまでして

 

そうまでして自分を守らなければならないのだ

在日だ、安部だと絶対悪を作り上げてまで

レイプを告発した勇気ある女性を誹謗中傷してまで

そうまでして自分を肯定しなければ、自分が社会の中の意味ある一人だと思えないのだ

結婚できない自分

社会的地位が低い自分

本当はどんな自分でもいいはずなのに

みじめな思いをしなければならないのは、社会の底を流れるみんなの意識だから

女性専用車両に反対してまで

生活保護者をバッシングしてまで

自分は正しい答えを分かっていると思いこんでまで

たばこ臭い部屋で、ネカフェで、パソコンをのぞき込み、また誰かをバカ扱いして、ひと安心するのだ

男の子は強くありなさいと教えたのは誰だ

強くあるために、僕は今日も、誰かをバカにする

弱い人間は死ねと書き込む

女性が権利を主張するのを許せない

どこからか沸いてくる怒りを

脅迫まがいの言葉に込める

強くあるために

僕は今日

世界で最も弱くなる

 

友人からの手紙

新しいCDありがとうございました。


自分の心情に馴染んでくれる曲ばかりで、いつも大切に聴いています。


こちらの方は相変わらずですが、最近も妻が仕事を終え、家に帰ってきて辛い思いを抱えながら話をする時があります(彼女は彼女なりの現実をサバイヴしています)。


そんな時、僕は小さな音で元島さんの曲を掛ながら話を聴いたりします。


僕たちは大海に投げ出され、二人でもがいているようなものなのかもしれません。


僕は妻の話を聴き、苦しみを受け止めながら、共に深く海に沈み込んでいく感覚になります。


妻の苦しみは良く分かります。だからこそ僕もずっと深く沈み込んでいく感覚になります。


でも二人揃って、身も心も全て沈みきってしまう訳にはいかないのです。


もがきながらでも水面から何とか顔を出し、息を吸い、呼吸をして、生きていかなくてはなりません。


だからそんな時、僕は何となく意識を二つに分けるようにしています。


一つは苦しみに寄り添いながら深く沈んでいく意識、もう一つは水面から顔を出し、沈みきってしまわないように浮かぶ意識です。


その時僕にとって元島さんの曲は、水面に浮かぶ"ブイ"のような役割を果たしてくれます。


僕は波に揺られ、沈み込んでいきながらも、同時にそれに捕まり、何とか浮かぶ力を保って、呼吸をしているのです。


もがきながらも、そこには生きていくことの真実が一掴み含まれているように思えるのです。


感性を摩耗させることではない、痛みを感じなくなることではない、痛みを感じながらも、揺れながらも、沈みながらも、生きていくのだ。


この曲を聴きながら、僕はそんな気持ちになっています。

 

[content]                                    

歌は不思議だ。歌詞ということではなく、曲ということではなく、伝わる何かがある。

僕にとってみても、歌うことはブイの役割をしたり、沈み込むための錘だったりする。

揺らすための風だったり、死ぬことだったり、生きる事だったりする。

言葉もまた不思議だ。

書いた言葉ではなく、言葉を超えたところで、何かが伝わるものだ。

僕はこの手紙に、歌のように流れるものを聴く。

たまにふと眺めてみたりする。

 

意味

意味

 

今日は遠足で、動物園に行くのだという

茶臼山?」

「うん。そうだよ」

5歳になる三女は、納豆をかき混ぜながら頷いた

 

茶臼山動物園は、7年か8年前に行ったきり

まだ、てくてく歩きの長女と

青葉のような夫婦

チューリップ花壇の前で、写真を撮った

あれから、押し流されるように、人生は流れ

かつて住んだこの土地に、また流れ着いたのだ

 

「行きたいね」

妻が微笑む

「うん」

僕は梅干に手を伸ばす

 

流れた時間は、二人の間に言葉を減らし、意味を増やした

 

昔行ったね 懐かしいね 写真撮ったね あれからいろんなことがあったね また行きたいね

 

ご飯と味噌汁と梅干と納豆

あの頃と変わらない朝食を食べながら

僕は自然にその意味を汲む

 

「狸がいるかもよ」

「違うよ、猿がいるんだよ。先生が言ってたもん」

「じゃ、ウキッて言ってかみつくかもよ」

娘が笑う

僕がふざける

妻が微笑む

鳥の鳴き声がする

 

長女と次女がそろそろ学校へ着くころ

初夏の風はまだ少し冷たい

縁側で洗濯物が揺れている

誰も気が付かないほどに

何気なく 小さく  揺れている

 

 

2割

死んだじいちゃんが夢に出てきて、一緒に歩こうと言った
歩きながら話をした
2割の力で乗り越えられることと、8割出さないと乗り越えられないこと、どっちが面白いと思うかと聞いてきた。
僕は、2割があまり面白くない事は分かると言った。
そのあと、弟が出てきて、ボクシングの試合を、弟とする事になっていて、試合はあと一カ月を切っていた。
僕は何もしていない。
家族で食事をとっている時、不意に思いついて、裸足で飛び出して、走りだしたら、全然走れない。
8割出したら倒れそうだ。
身体は手を抜き2割しか出そうとしない。
でも8割出さないと、いまの自分を超えていけない。
それは分かった。
靴を履いて、また走り出すところで目が覚めた

何をやろうかぼんやり考えた

元島生さようなライブ

場は生き物だと思う

体温のある場がいい場だと思う

風邪もひくし、走ったり、さぼったりする

食べたり、吐いたりする

常に変わっていく

人間にはそういう場が必要だと思う

最後にこういう瞬間が作れたことは

この上ない幸せでした

 

次の土地で何ができるかなと考えたりします

極力何も考えず

感じてみようと思っています

ひとのま

富山

7年間

楽しかった

幸せでした

 

がたんごとん がたんごとん 飽きずに行こうあの街へ いつまでもいつまでも

 

youtu.be

動的平衡

僕らは、ある流れの中で生きている。

生き物の細胞は常に生死を繰り返し、半年もすれば、すべて入れ替わってしまう。

細胞をさらに細かくしていくと、原子というものになり、ものを食べると、その食べ物を構成する原子が、即座に身体を構成する一部となる。

そうやって、日々、変わり続けながら、平衡を保っているのが生物の正体で、僕らは個体ではなく、揺らぎ続ける気体みたいなものだという。

それを動的平衡と言うそうだ。

 

そして、この世界の原子の総量というのは、古代から変わっていない。

つまり、僕が死ねば、個体は無くなったように見えるけれど、実は、この世からは何もなくなっていないのだ。

人間を構成している物質は、酸素、窒素、炭素、水素。

死ねば、それらは、アンモニア二酸化炭素になって大気に溶ける。

雨になって、植物に吸収され、また誰かの口に入り、その細胞を構成する。

入れ替わっているだけなのだ。

 

この話を聞きながら、否応なく仏教に思考が行く。

諸行無常。空。輪廻。

すべての事は、一瞬も同じでなく、常に変わり続けている。

実態は何も無く、すべて流れ、回っている。

 

細胞の話でさらに面白かったのは、細胞ははじめは、どこの細胞をになるか決まっておらず、それは、細胞同士の動きや状態によって、まるで空気を読み合うかのように、自分の役割を決めていくのだという。

そして、例えば肝臓の細胞が、肝臓細胞という役割を忘れてしまったものが、ガン細胞だという。役割を忘れてしまった細胞は、増え続けることしかできない。

ここで、また思考は、移る。

 

最近僕はネット上で攻撃を受けることがある。

僕は自分を右だとも左だとも思わないが、例えば平和憲法の重要性を主張すれば左だと攻撃を受け、生活保護者の権利を主張すれば、弱いやつは死ねと言われ、女性被害者を守ろうとすれば、加害者を守ろうという攻撃に合う。

その人たちは、なぜか必死に論破しようとしてくる。

その必死さが気にかかっていた。この動きは何なのだろう。

自分なりに分析すると、それは、社会に居場所や自己肯定の場がなくなってきていることに起因するのではないかと思っている。

国家だ正義だ右だ左だと言わなければ、この世界で、自分の位置を見いだせない。

この世界を構成する重要な一部としての自分だという確信の無さ。

その不安の受け皿となっている可能性がある。

「在日」という共通の敵がいることで、安心は確保される。

彼らの理論に対して反対意見を述べることは、彼らにしてみれば、ただの反対意見ではなく、自分たちを排除する理論に等しい。

そういう必死さを感じるのだ。

自分の役割を忘れて増え続けるがん細胞。世界でヘイトが増えていることと、どうしても重なる。

 

この世界で、僕は何をやるべきだろうか。

この流れの中で、どう生きていくことができるだろうか。

変わり続けるということは、どういうことなんだろうか。

 

ここで、思考は、重なる。

僕が吐く呼吸一つ、言葉一つ、行動一つ。

それらが、世界そのものなのだ。

世界から孤立しているもの、人、など存在しない。

この世界は一つの中にあり、すべては繋がっている。

「在日」がいるのではない「安部」がいるのではない「北朝鮮」があるのではない。

僕の中にこそ世界がある。

僕が、何をして、どういう思考を持つか。

足元が一番大事だ。

 

自分がどのようなふるまいをして、どのような選択をしていくのか。

明日の僕のそれさえも、僕には分からない。

家族を抱えながら、そんなことでいいのかと思う。

しかし、それうあるべきだとも思う。

見えないものを感知しながら、目の前の事を整えていくしかない。

こうして書きながらもあらゆる思考は浮かんでは消え、どこか同じところに戻ってくる。